講談社 野間清治と創業物語【8】

原点〜野間清治と創業物語〜

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野間清治エピソード
剣豪の孫息子だった野間清治

野間清治は1878年(明治11年)群馬県生まれ。父は千葉県にあった小藩・飯野藩の旧藩士。母・文(ふみ)は、小説『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)などにも登場する幕末の悲運の剣豪・森要蔵の娘です。維新の激動のなか、武士としての禄を失い困窮した野間夫妻は、関東各地を流れ、清治は、父母が住み込みの教師助手をしていた創設間もない小学校の片隅で生まれたのでした。
このような父母の血を受け継いだのか、清治は出版業に関わるとともに、生涯剣道に精進し、社員にも奨励しました。息子である二代目社長・野間恒は、1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝の天覧試合で優勝し、“昭和の大剣士”と謳われました。
講談社の敷地内には、現在も野間清治の遺志を受け継いだ野間道場があり、早朝には竹刀の音が聞かれます。
自宅で竹刀を振る清治
創業時の編集室で行われた「籤引き5分間演説」
『雄弁』『講談倶楽部』の同人たち。後列右から二人目が清治
『雄弁』編集中だった団子坂の社屋(東京都文京区・現在は社宅になっています)には、弁論を愛好する学生や、清治が法科大学書記になる前に教員をしていた沖縄中学の知人などがたむろしていました。
そんな時に、人が何人か集まると必ず始まったのがくじ引き演説会。各自が思い思いの題を紙に書いて筆立てに入れ、引き出した1枚に書かれた題で即席スピーチをするという余興です。題は“忠義と愛国心”“日本の将来”“犬と猫”“喧嘩について”など種々雑多でした。
ちなみにこの「5分間演説会」、意外なところに受け継がれています。新入社員は2ヵ月の研修の間、毎朝「3分間スピーチ」をしなければなりません。
“講談社会議会議で日を暮らし”

大の話好き、議論好きであった清治の影響を受けてか、講談社では団子坂の社屋、あるいは野間邸などあちらこちらで会議が行われていました。「会議中の沈黙は罪悪なり」とまで言われ、新人から古参幹部まで分け隔てなく発言する方式です。時には午後3時から開始した会議が翌日の夕方までかかることもあったといいます。
通常の2倍売れたという新年号の決定会議には清治も参加。企画の可否を判断していきますが、彼の編集理念はこうでした。
「ウチの雑誌は、牛が反芻偶蹄類であるとか、両角を有するとかいうようなことは、書いてもらわなくてもよい。それも大切なことだが、そんなことをのせる機関は外にもある。それより、どうすれば牛からよい乳が出るとか、その肉がうまくなるとかいうことを教えるような記事を書いてもらいたい。小説としても、その方角を目指したものを望みます」
 講談社の出版理念は「おもしろくてためになる」。これはいまでも社内で言われています。
団子坂社屋での会議風景
野間邸での新年号会議。奥に清治の姿が見える
「少年社員」の採用は、教員から転身した清治ならでは
団子坂社屋前の少年社員たち
清治は東京帝国大学法科大学の書記の職を得る前は、沖縄県で沖縄中学の教諭をしていました。“教育”は、清治の掲げた人生の大きなテーマであり、彼は創業5年目の1913年(大正2年)から少年社員の採用を始めます。彼らは、実際の仕事の中から生きた学問を学び取り自らを育てるという、清治の教育観に基づいて採用されていました。襟に「講談倶楽部」と染め抜いた仕事着を着た丸坊主の少年たちが大正から昭和初期にかけて東京市内でよく見られたそうです。掃除や使い走りから始まって、投書の仕分け、文書の整理、帳簿整理などを学び、やがて正社員になっていきます。その数は千数百人。最後の少年社員だった人が定年を迎えたのは、数年前です。
“渾然一体”の社是を体現した「三五会」

講談社の三大社是(しゃぜ)は“誠実勤勉”“縦横考慮(じゅうおうこうりょ)”“渾然一体(こんぜんいったい)”。
誠実勤勉(誠実かつ勤勉に働くこと)、縦横考慮(いろいろな角度から物事を柔軟に考えること)と比べて、“渾然一体”は意味がわかりづらいかもしれません。清治はこう説明しています。
「事業の根本は人である。(人と社が)“渾然一体”になるためには、編集部とか営業部とか、そんな名前さえもあるいは害になるかもしれない。一切の障壁を廃し、温かい血の互いに交流する兄弟の情をもって水魚の交わりをなす、こうありたい。
我は一人の我にあらずして全部のうちの一部である。人の失敗を罵る者は、それは彼自身を罵ることだ。日々新たに向上し、そうしてこの“我”を拡大したいという希望までもお互いに持ってもらいたい」
“人の和”をさらに進めた“渾然一体”を具体化した計画の一つが、大正5年5月5日に設立された社員懇談会の「三五会」です。社員の懇談を深めるための会ですが、まもなく全社員参加の旅行会となり、なんと社員数1000人近くなった1970年代後半まで行われていました。最後の頃は温泉街の旅館すべてを講談社で借り切ってどんちゃん騒ぎをしたこともあったとか。先輩・OBの方々にお聞きしても、どうも旅行当日のことは苦笑しつつ言いたがりません。いったいどんな悪さをしていたのでしょうか……。
1916年(大正5年)第一回三五会の風景。江戸川で川下りをして楽しんだ
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