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看板は掲げたが、速記録以外には何一つない。雑誌を作る資金を出してくれる会社を探したが、つてもない清治に資金を用立ててくれる発行元はなかなか現れなかった。 年を越して1910年となった1月のある日、本郷を歩いていた清治は自動電話(現在の公衆電話)のボックスに飛び込み、電話帳のなかから「大日本」とついている社名を探した。「大日本図書株式会社」という名前が目に留まった。その足で本郷から銀座の一等地にあった大日本図書まで歩いた清治は、支配人に雑誌の構想を熱く語り、速記録を見せ、ついに発行元になってもらう了承を得る。 そのころの社員らしき人間は、書記の仕事のかたわら夜に雑誌を作る清治の元に転がり込んできた知人2名。その他に友人知人の学生たちが立ち寄り、編集作業を行っていた。実際のところは編集作業などといえるようなものではなく、会議と称して、夢を語り合い壮大なほらを吹いたりして景気づけをするような毎日だった。いまのサークル活動と変わらない。 | |