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「大学の講演は、帝大の学生だけに聞かせて外部には一言も漏らすべきものでないと考えられている。学者は専門以外の雑誌にはあまり書きもせず、語りもしない。偉大な教授たちや天下に名の聞こえた人々の講演を世間一般の人々が聞けるということになったら、どんなにいいだろう! 今、自分の手元には速記録がある。これを材料に雑誌を作り、次代の若者、一般の人々に対してよい演説の模範としたらどうだろうか」 テレビもラジオもない時代。言論を記録し多くの人に知らせる方法は、印刷物だけである。しかも、それまでの“本”とは、文語体(書き言葉や漢文)で記されるものとされていた。しかし清治はこうした考えに囚われることはない。 演説会から1ヵ月とたたない11月末、清治は団子坂下の借家に「大日本雄弁会」と大書した看板を掲げる。講談社の創業だった。 | |