親鸞の教えを知るためのキーワード
あらゆる人々を等しく真実の世界(浄土)に導き入れ、真の人間性を回復させようと願う阿弥陀如来の確かな誓い。
阿弥陀如来の絶大なる救いのはたらきのこと。とても仏となる資格も意思もない私たち凡夫を、如来の方から仏に導こうとするはたらき。
ふり返ってみるとき、私たちのなかにははたして真に「善人」といえる人がいるだろうか。阿弥陀如来のめざす救いは、大多数を占める悪人たちに向けられているのだ。
この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となること。親鸞は、必ず救うという如来の誓いを信じ、念仏を申すものは、命が終わらなくてもこの世ですでに往生が約束されると語った。
親鸞は流罪後、「禿」の字を姓とし、「愚禿釈親鸞」と名のった。「禿(かぶろ)」とは僧の剃髪でなく、一般人の髷でもないざんばら髪のこと。「僧に非ず、俗に非ず(非僧非俗)」を親鸞は生き方とした。
南無阿弥陀仏の六字は、「ここにあなたを救う如来がいる」という阿弥陀如来の「喚びかけ」の言葉。それを聞き、口に南無阿弥陀仏と称える(念仏する)とき、如来の心が私に伝わり成仏が約束される。
1 生い立ち
親鸞は90歳の長寿をまっとうしました(1173年〜1262年/新暦で換算すると1263年)。平安末期から鎌倉期、貴族から武家へと政権が移り変わる激動の時代です。また、仏の教えも廃れるとされた末法の世。そんな中をひとりの宗教者として生きぬいたのです。
生まれたのは、京都郊外の日野の里。日野家は代々儒学者の家系でしたが、親鸞の父・有範は、皇太后宮権大進という役職を担う下級(中級ともされる)貴族でした。有範はやがて親鸞たち幼い兄弟をおいて謎の出家をします。また、残された母は病で早くに亡くなってしまうのです。親鸞兄弟は、それぞれ親戚に預けられました。親鸞は伯父の範綱のもとで養育されますが、わずか9歳のとき、のちに天台座主になる慈円のもとで出家。やがて比叡山に入山します。宗教者としての道を歩みはじめたのです。
2 念仏への道
9歳で出家し、比叡山に上ってから20年近くの歳月を厳しい修行によって過ごした親鸞。大正時代に発見された妻・恵信尼の手紙から、そのときの親鸞の身分が「堂僧」であったことがわかりました。常行三昧堂に仕える、あまり身分の高くない僧です。仏道に入った親鸞は、悟りを得ること、「仏」として目覚めることを目指したに違いありません。しかし、どんなに厳しい修行に挑んでも、納得のできる境地にはいたりませんでした。当時の仏教の総合大学ともいえる比叡山で、最高級の教育を受けたにもかかわらず、心は満たされなかったのです。親鸞は京の町に立つ六角堂で、百日の参籠に臨みます。この先進むべき道を示すお告げを得ようとしたのです。当時、こうして針路を決めることは珍しくはありませんでした。95日目の暁、親鸞は本尊・救世観音のお告げを得ます。それをきっかけに向かったのは、都で評判の僧、法然の庵。法然は「専修念仏」という教えを説いて、人々から熱い支持を得ていました。親鸞はその教えを聞き、「これだ」と気づくのです。そして、法然の門下に入りました。それが進むべき道だったからです。
3 生涯の師
法然の「専修念仏」の教えを考える前に、法然という人の横顔を見てみましょう。法然は親鸞より40歳年長で、現在の岡山県に生まれました。豪族であった父は敵に討たれ、法然は出家して、15歳で比叡山に上ります。早くから頭角を現し、その抜きんでた頭脳は「智恵第一の法然房」の呼び名を得るほどでした。しかし、当人は悩んでいました。万巻の経典を読んでも、自分や故郷に残した母の心を救う教えを見出せなかったからです。将来を嘱望されていたにもかかわらず、法然は叡山の「別所」と呼ばれる隠遁の地に移ってしまいます。そこでさらに勉学しつづけました。経典を読みつづけるうちに長い歳月が流れていきました。そして43歳になったとき、経典の中に光のごとき一文を見つけたのです。「念仏を称えれば、すべての人は救われる」と。以来、法然は比叡山を下り、東山の麓に庵を結びました。そこで人々に自らが見出した教えを説きはじめたのです。その教えが「専修念仏」です。
阿弥陀如来は、菩薩のときに「すべての人を救えなければ私は如来にはならない」と誓った。そして如来になった。だから、すべての人は必ず救われる。どんな悪人であっても。如来のその誓いを忘れないように、口に出して称えればよい、「南無阿弥陀仏」と。この念仏こそ、人々を救う阿弥陀如来の働きなのである――これが、専修念仏です。親鸞は、この教えに帰依しよう、法然上人に帰依しようと決意しました。それは、たとえ法然上人にだまされて地獄に落ちてもかまわない、と言い切るほどに強い決意でした。
4 結婚
親鸞は、公式に妻帯した日本初の僧侶です。仏教では僧侶が肉食妻帯することを戒によって禁じています。しかし、実際はひそかに妻をもつ僧侶も少なくなく、比叡山の僧侶たちも里に誼を通じた女性を住まわせることを黙認していたようです。しかし、親鸞は公然と妻帯しました。それは、師の法然が「念仏の妨げとなるものは、すべてやめるべきである。聖であって念仏ができないならば、妻帯して念仏せよ」と主張したからです。法然自身は生涯独身を貫きましたが、念仏者にとって妻帯は浄土往生の妨げにならない、と言い切ったのです。その教えによって、親鸞は妻帯に踏み切りました。相手は9歳年下の恵信です。結婚の時期については、従来、法難で流罪になったあとに越後(新潟県)で、という説が唱えられてきましたが、近年では法然の草庵でふたりはすでに出会っており、京都時代に結婚したという説が有力です。
恵信は、三善為教の娘とされています。三善家は九条家に仕える下司(家の事務を司る役)で、中流貴族の家でした。三善家については他にも、越後の国府の豪族、越後の国府の役人、越後の善光寺聖を統括する家など、いろいろな説がありますが、越後にはなんらかの権益をもっていたものと考えられます。恵信は大正時代に発見された手紙からもわかるように、文字も書き、宗教の素養もあり、当時としては高い教養を身につけた女性であったと考えられています。
5 流罪
「念仏ひとつですべての者が救われる」という法然の教えは、貴族や武士階級にも信者を広げましたが、殊に庶民層に熱烈に支持されていきます。しかし、既存の仏教教団にとっては当然、受け入れがたい教えです。既存の仏教教団が尊重してきた修行や儀式、法要をすべて無用としたのです。非難や反発の声は次第に高まり、比叡山では念仏停止を求める決起集会が開かれました。そこで、法然は比叡山衆徒の非難をやわらげるために、念仏者を戒める「七箇条制誡(起請文)」を記し、190人の門弟たちに署名させました。親鸞も署名しています。この書状によって専修念仏への非難はいったんおさまったかに見えたのですが、翌年には奈良の興福寺が、朝廷に念仏停止を訴えます。朝廷にも法然の信者が少なからずいましたから大騒動です。そのとき朝廷は、専修念仏が旧来の仏法を排斥するならば禁ずるが、そうでないので罰することはないと応対しました。興福寺はおさまりません。そこで、法然教団の急先鋒、行空、遵西、幸西の処罰を要求。朝廷は行空と遵西だけを取り調べましたが、法然は、興福寺を慮って行空を破門しました。
そうした状況下で、後鳥羽上皇が熊野に行幸した留守中に、寵愛する女官が遵西と住蓮が催した法会に参加し、無断で出家するという事件が起こりました。上皇は激怒。遵西、住蓮をはじめ法然の門弟4名を死罪に処し、法然、親鸞を含む8名を流罪としました。親鸞は、越後へ流されることになったのです。
6 布教
親鸞が越後へ流されたのは、35歳のときでした。当時、流刑者は妻を伴うことが慣わしで、恵信も越後に同道します。恵信の実家は越後に何らかの権益をもつ家柄ですし、流刑の1ヵ月前に親鸞の伯父・日野宗業が越後権介に任命されています。流刑地での生活はいくらか保護されていたことでしょう。しかし、僧侶に流罪を科すことはできないため、親鸞は僧籍を剥奪されてしまいます。そして、「非僧非俗」、つまり僧侶でもなく、かといって単なる俗人でもないアウトローとして生きる覚悟をするのです。そのときのことを『教行信証』のあとがきに次のように書いています。「僧にあらず俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓とす」と。また、越後の人たちに師の教えを伝える決意を抱いていたことが、『親鸞伝絵』に記されています。「大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なににによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり」と。
越後生活の5年目、40歳のときに赦免がくだりました。しかし、直後に法然の訃報が入り、親鸞は京都に戻らず、法然の教えを多くの人に手渡すために東国・常陸国に旅立ちます。その後、常陸国を拠点として20年にわたって布教に勤しむのです。
7 著作
常陸国では、法然の教えを語りつづけ、多くの門弟を得ました。ただし、親鸞自身は「弟子」という意識はなく、あくまで「同朋」、つまり法然の教えを共有する仲間という認識でした。仲間が増える中、親鸞は法然の教えが大乗仏教の極みであることを証明するために、著作にも打ち込みます。主著『教行信証』です。52歳の頃、その草稿が完成したといわれています。そして、さらに精度をあげるためにでしょうか、親鸞は60歳の頃に京都に戻り、一層著述に打ち込むのです。現存する『教行信証』(坂東本・国宝)には、700ヵ所にものぼる「角筆」による書き込みが見つかっています。角筆とは、木や象牙など先のとがったもので、くぼみをつけて書き込む用具のことです。親鸞はおそらく生涯にわたって、原稿に手を入れつづけたのでしょう。
京都では、『教行信証』のほかに和讃という仏歌もたくさん書いています。和讃は、仏の教えを口ずさみやすいメロディにのせて表現する「うた」です。親鸞はおりにつけて、阿弥陀仏や高僧を讃える歌をつくり、やさしい節回しをつけていました。
親鸞の著作の多くは、80代に書かれたものです。晩年の親鸞の旺盛な執筆ぶりが思い浮かびます。
8 子どもたち
親鸞の子どもは6人とも7人ともいわれます。「日野一流系図」には、7人の子どもが記されていますが、一番目の「範意」の母が九条兼実の娘とされ、その娘の存在が確認できないため、さまざまな説が生まれています。いずれにせよ、多くの子どもに恵まれたことは、公式に結婚したことによります。子どもによって多くの喜びを得、また、仏の教えを深く実感することになったでしょう。しかし、子どもは喜びとともに、試練を課す存在でもあります。親鸞84歳のころ、息子の善鸞との間に確執があったといわれています。それは、親鸞が帰京して20年余りが過ぎ、関東の地に信心をめぐる論争が起こるようになったことがきっかけでした。親鸞は異端を正すために、息子・善鸞を関東に派遣します。しかし、初めて出会う人々を導くのは難しかったのか、善鸞は門弟たちから反発されたようです。これを知った親鸞はやむなく、善鸞に向けて義絶の手紙を書いたとされています。ただし、この義絶の解釈をめぐっては、最近、新たな見地から検証が行われています。
末娘の覚信尼は、親鸞とともに関東から上京し、晩年の親鸞の世話をして暮らします。上京後に結婚した日野広綱は早くに亡くなり、親鸞は独身の覚信尼を支援してくれるよう関東の門弟たちに手紙を書いています。父親の素顔がのぞく微笑ましいエピソードです。