老舗旅館の長男、中学校二年生の逸夫は、
自分が“普通”で退屈なことを嘆いていた。
同級生の敦子は両親が離婚、級友からいじめを受け、
誰より“普通”を欲していた。
文化祭をきっかけに、二人は言葉を交わすようになる。
「タイムカプセルの手紙、いっしょに取り替えない?」
敦子の頼みが、逸夫の世界を急に色付け始める。
だが、少女には秘めた決意があった。
逸夫の家族が抱える、湖に沈んだ秘密とは。
大切な人たちの中で、少年には何ができるのか。
晴れた空から降ってくる不思議な雨に、昔の人は素敵な名前をつけました。天泣と書いて「てんきゅう」と読みます。
物語の冒頭、この天泣が町に降りかかります。主人公である逸夫の暮らす温泉旅館を、そしてもう一人の主人公である敦子の痩せた肩を濡らします。
この冒頭のシーンを書いたあと、僕は取材旅行に出かけました。
小説の舞台となるのは架空の温泉街ですが、モデルは奥秩父です。
取材二日目、驚くべきことが起きました。晴れた空の下、現地の空気を感じたくてあちこち歩き回っていたところ、突然天泣が降ってきたのです。そのとき僕が歩いていたのは、まさに物語の中で逸夫が天泣を見る場所――そして敦子が天泣に身体を濡らす場所である、旅館の裏手の河原でした。
明るい空と川面のあいだで、雨は金色に光っていました。半開きの口でそれ見上げながら僕は、まだタイトルも決まっていないこの小説が、絶対に素晴らしいものになると確信できました。
信じることで、人は実力以上の力を出すことができます。でもそれは自分一人の力ではできません。僕に力を貸してくれたのが何なのか、神様なのか、気圧の具合だったのかわかりませんが、『水の柩』を書き終えたいま、あの確信が現実になったと自信を持って言えます。
いい作品が書けました。
読んでいただければ幸いです。